文化祭での決裂以降、ひかりからの手紙を読まずに捨てたことを激しく後悔しながらも、蒼太は一歩を踏み出せずにいた。
ある放課後、柳先生に呼び出された彼は、一編の匿名詩『仮面』を見せられる。それは、ひかりが「太陽の光」という仮面の下に深い孤独を隠し、誰かに「本当の名」を呼ばれることを願う切実な叫びだった。さらに大和から、文化祭で彼女が密かに夜遅くまで展示のポスターを作っていた事実を告げられる。
彼女の本当の想いと痛ましい献身を知った蒼太は、自らの言い訳と迷いを完全に捨て去り、彼女の「本当の名」を呼ぶため、夕焼けの校庭を走り出すのだった――。
本当の名前を
夕焼けに染まる校庭を、僕はひかりのいるはずの場所へと、ただひたすらに走っていた。
息が切れる。
肺が焼ける。
心臓が張り裂けそうだ。
だが、足は止まらない。
謝るためじゃない。
許してもらうためでもない。
ただ、伝えなければならない。
君の仮面の下の本当の名を知っていると。
君はもう一人じゃないと。
僕は勢いのまま、教室の扉をスライドさせて開けた。
「はあっ、はあっ……」
肩で息をする僕の目に飛び込んできたのは、僕が予想しながらも最も避けたかった光景だった。
ひかりはそこにいた。
だが、一人ではなかった。
彼女は数人の友人たちに囲まれ、楽しそうに談笑していた。
その輪の中心で、彼女は完璧な「太陽」として輝いていた。
アトリエで見せていたペンキに汚れた共犯者の顔ではない。
柳先生に見せてもらった詩の中で出会った、仮面の下で泣いている少女の顔でもない。
僕の知らない「記号としての高槻ひかり」が、そこにいた。
僕に気づいた友人たちの一人が、「あれ、誰だっけ?」と囁く。
その声に、ひかりがゆっくりとこちらを振り返った。
彼女の目に僕の姿が映る。
その瞬間、僕は見た。
彼女の瞳から、すうっ、と光が消えていくのを。
感情のシャッターがガラガラと音を立てて下りていくのが、はっきりとわかった。
彼女の顔に浮かんだのは、完璧な、そしてどこまでも冷たい笑顔の「仮面」だった。
「……神木君。どうかしたの?」
その声は、僕が知っている彼女の声ではなかった。
何の温度も感情も宿っていない、磨き上げられたガラス玉のような音。
「……は、話があるんだ。ふ、ふたりで」
僕がかろうじて絞り出した声に、ひかりは一瞬だけ躊躇する素振りを見せたが、やがて「みんな、ごめん」と立ち上がった。
誰もいなくなった、夕暮れの廊下。
校舎の長い影が、巨大な断層のように僕と彼女の間を裂いていた。
「……話って、何?」
ひかりは窓際に立ったまま、僕との距離を測るように言った。
僕は震える声で語り始めた。
文化祭の最終日、僕がいかに愚かで独善的だったか。
君が僕のためにしてくれていたことに気づけなかったこと。
君の優しさを踏みにじってしまったこと。
「本当に、ごめん……」
僕は心のすべてを込めて、深く頭を下げた。
だが、彼女からの返事は、僕の予想を無惨に裏切るものだった。
「……何のこと?」
彼女の声は、氷のように冷たかった。
「別に、神木君に謝られるようなこと、何もないよ。文化祭の展示、楽しかったじゃない。もう終わったし」
終わった。
その一言が、僕の胸を抉った。
僕たちが共有したあの濃密な時間は、彼女にとってはすでに整理され、捨て去られた過去なのだと宣告されたのだ。
「そんなこと、ない!」
僕は思わず叫んだ。
「僕たちは、ただの委員じゃなかった。仲間だったはずだ! 高槻さんが、そう言ってくれた!」
「……大きな声、出さないで……よ」
ひかりの眉が微かに動いたが、瞳の温度は上がらない。
「言ったかもね。でも、それは文化祭の話だし。もう終わったよね」
彼女はゆっくりと僕の方を向き直った。
その瞳には、僕が焦がれた光はもう、ひとかけらも残っていなかった。
そこにあったのは、深い深い諦めと拒絶の色だけだった。
「私たち、もう、関係ない」
その静かな一言が、僕の最後の希望を粉々に砕いた。
「住む世界、違うし私たち、最初からわかってたでしょ?」
彼女は言った。
それは、かつて僕が自分を守るために使い続けていた、あの呪いの言葉だった。
「神木君には、神木君の静かな世界がある。私の世界とちがう……自然でしょ」
違う、と叫びたかった。
君の仮面の下の苦しみを、僕は知っている。
君は一人じゃない。
だが、その言葉は喉の奥で凍りつき、音にはならなかった。
彼女の拒絶は、もはや演技ではなく、僕という異物を排除するための本能的な防衛だったからだ。
ひかりは僕に背を向けると、迷いのない足取りで教室へと向かった。
「待って!」
僕の悲痛な声に、彼女は一度だけ足を止めた。
しかし、最後まで振り返ることはなかった。
「じゃあね、神木君」
そこには何の感情も、温度もなかった。
ただの平坦な音の連なりだけを残して、彼女は扉を開け、再び「太陽の輪」の中へと帰っていった。
一人残された、夕暮れの廊下。
窓から差し込む最後の光が、僕の足元で力なく消えていく。
全身の力が、音もなく抜け落ちていくような感覚だった。
自分の感情がどこか遠くの場所で、バラバラに砕け散る音が聞こえる。
肺が痛い。
空気が凍りついているのか、吸い込んでも吸い込んでも、酸素が血に混ざらずにただ胸の奥で澱むだけだった。
僕は壁に背中を預け、ずるずるとその場に沈み込んだ。
自分が何をすべきだったのか、本当は言葉にすべきだったのは何だったのか。
思考が真っ白な砂嵐に覆われて、それ以上何も考えられなかった。
ただ、鉛のように重い身体が、冷たいコンクリートの壁に接している感覚だけが、自分がまだ生きていることを証明する唯一の根拠だった。
「……神木君」
微かな声に、視線だけを上げる。
そこには一人の女子生徒が立っていた。
白石葵。
先日、駅前のカフェの前で出会ったとき、ひかりの隣にいた僕を、あの射抜くような眼差しで見ていた、同じクラスの女生徒。
賑やかな輪の中心から一歩離れた場所で、風景の一部のように佇んでいる彼女の姿を、僕はかろうじて記憶の底から引き出した。
「大丈夫?」
彼女の声は、驚くほど平坦で、何の色彩も帯びていなかった。
だが、僕を見つめるその瞳の奥には、あの日、駅前で感じたあの「奇妙な熱」が、夕方の冷たい空気の中でより一層鮮明に宿っているように見えた。
それは同情などではなく、僕という人間の核心を憐れみ、あるいは何かを試すような、温度のない透明な視線だった。
僕にはその言葉を受け取る余裕も、資格もなかった。
自分の絶望で手一杯で、彼女の問いかけは壁に跳ね返る無機質な音にしか聞こえない。
白石葵はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、僕の無様な姿をしばらくの間じっと見つめていた。
それはただの確認作業だった。
僕という人間がまだ呼吸をしているかどうかの。
やがて彼女は、楽しそうな声が溢れる教室のドアを開けて、その光の中に溶け込んでいった。
僕の背中は、廊下の冷たい壁に張り付いたまま動かなかった。
残されたのは、圧倒的な孤独だけ。
彼女が残した「大丈夫?」という空虚な音の残響が、僕の絶望をかえって深く、抉り取っていた。
次話43話は8月リリース予定

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