沈黙の絶叫 ‐見捨てられたチェロ
市長室から持ち帰った、弦の切れたチェロ。
リクはアトリエにこもると、映写機が照らし出す青白い記憶の奔流を、一心不乱にスケッチブックに書き写していった。
セレナとの約束、止まってしまった指先、そして絶望の中で走り去った若き日のアルドの背中……。 「……書けた。これが、このチェロが伝えたかった物語のすべてだ」
リクはペンを置いた。
リクが次のページをめくろうとした時、隣でずっとチェロを見つめていたヒカリが、その傷だらけの木肌にそっと触れ、震える声で言った。
「……リクくん、聴こえる? このチェロ、ずっと泣いてる。痛いよ、苦しいよって。真っ暗な部屋で、たった一人でずっと歌いたがっていたの」
ヒカリの瞳には、大粒の涙が溜まっていた。
彼女の「耳」には、切れた弦が虚しく風に揺れる音ではなく、主に捨てられた楽器の絶叫が届いていた。
「この子がこんなに苦しんでいるまま、物語を光にすることなんてできない」
ヒカリの声は、震えていたが、これまでにないほど強く響いた。
「修理しなきゃ。この設計図に、もう一度本物の命を吹き込もう。このチェロが、世界で一番美しい音で歌えるように……もう一度、鳴るように」
リクは一瞬、言葉に詰まった。
「でも……音が鳴らなければ、これ以上このチェロが外の世界で傷つくこともない。僕たちのノートの中だけで、静かに守ってやれば……」
しかし、言い終える前にヒカリの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
その無垢で残酷なほどの真っ直ぐさに、リクは自分の内にこもろうとする「安全な殻」を打ち砕かれるような感覚を覚えた。
翌朝、リクとヒカリはチェロを抱えて街へ出た。
かつて音楽の都と呼ばれたこの街なら、楽器店の一つや二つ、すぐに見つかるはずだった。
しかし、地図にあるはずの場所はどれも「電子部品店」や「管理事務所」に変わっていた。
「すみません、楽器を直せるところを探しているんですが」
リクが通りすがりの男に尋ねた。
男は立ち止まりもしなかった。
奇妙なゴミを見るような目でチェロを一瞥すると、煩わしそうに舌打ちをし、手首の時計に目を落としたまま足早に去っていった。
街の至る所で、人々は無表情に効率を追い求め、誰一人として足を止めて空を見上げる者はいなかった。
彼らにとって、音楽は憎むべき対象ですらなく、ただの無関心な「ノイズ」でしかなかったのだ。
「……そんな」
途方に暮れた二人は、星祭りの会場となる中央広場のベンチに座り込んだ。
祭りの準備は進んでいるが、それは「伝統」という名の、事務的な作業に過ぎない。
「リクくん、聞こえる……。この街の地面の下から、すごく低くて、寂しい音がしてる」
ヒカリがつらそうに顔を歪めて言ったそのとき、背後から、低く濁った声が響いた。
「リクくん、聞こえる……。この街の地面の下から、すごく低くて、寂しい音がしてる」 ヒカリがつらそうに顔を歪めて言ったそのとき、背後から、低く濁った声が響いた。
「おい。そいつをどうするつもりだ」
リクは心臓を掴まれたように肩を跳ねさせた。振り返ると、そこには薄汚れた作業着を着て、片手に酒瓶をぶら下げた大柄な男が立っていた。 無精髭に覆われた顔は威圧感に満ち、その鋭い眼光が真っ直ぐにチェロを射抜いている。
「あ……」
リクは咄嗟に、抱えていたチェロを強く抱き寄せた。
隣のヒカリを庇うように少しだけ前に出る。
喉の奥が引きつり、冷や汗が背中を伝う。
街の住人のような無関心な冷たさとは違う、暴力的な熱を孕んだ気配に、リクは足がすくみそうになった。
「……あ、あの。これは、その……」
リクの声は情けないほど震えていた。
だが、男はリクの怯えなど意に介さず、じっとチェロだけを見つめている。
その瞳には、先ほどの通行人たちが浮かべていた軽蔑の色はなく、どこか深い、底なしの哀しみのようなものが宿っているように見えた。
「修理したいんです。でも、どこにもお店がなくて」
リクは震える声を振り絞って答えた。
ここで逃げ出してしまったら、このチェロは二度と鳴らない。その一心だった。
男はフンと鼻を鳴らし、ベンチの隣にどさりと腰を下ろした。
強い酒の匂いが鼻を突く。
「当たり前だ。あの男があのとき、すべての『余計な音』をこの街から追放したんだからな。……見せてみろ」
ダルボの家は、広場の路地裏にある、廃材に囲まれた小さな小屋だった。
中には、かつての栄光を物語るように、古い楽譜や折れた弓が山積みにされていた。
ダルボは作業台にチェロを置くと、愛おしそうにその木肌を撫でた。
「驚いたな。こいつは……アルドのチェロだ。まさか、まだこの世に残っていたとは」
「ダルボさん、なんで市長の楽器だとわかるんですか」
「知ってるもなにも、オレがあいつにくれてやった楽器だからな、大昔に」
ダルボは語り始めた。
友だちだったアルドが、チェロをやめ、政治家になったこと。
市長になったアルドが「合理化」を掲げ、街の交響楽団の解散を一方的に宣告した時のことを。
「おれたちは抵抗したさ。音楽は街の心臓だ、お前にそれを止める権利はないってな。だが、あいつは会議室の真ん中で、おれたちの楽譜をゴミのように積み上げてこう言ったんだ」 ダルボは、アルドの冷徹な声を真似るように低く吐き捨てた。 「『音楽は、人を飢えから救わない。悲しみを癒しもしない。それは弱者が現実から逃げるための麻薬に過ぎない。この街に、逃げ場所は必要ないのだ』とな」
ダルボは、切れた弦を一本ずつ外しながら、遠い目をした。
「あいつがチェリストだったことを知るやつは、もうおれぐらいしかいない。……だがな、あいつは音楽を憎んでなんかいなかった」
ダルボの太い指が、チェロの傷跡をそっとなぞった。
「楽譜を燃やした時のあいつの顔は、勝ち誇ってなんかいねえ。凍死寸前のガキが、自分の指先を切り落として焚き火に放り込んでいるような、ひどい顔だったんだよ。あいつは音楽を殺したんじゃない。自分がこれ以上傷つかないために、自分自身の心臓を半分、えぐり取ったのさ」
ダルボの大きな手が、震えるリクの肩に触れた。
「坊主、こいつを直してどうする。星祭りで、あいつにまた恥をかかせるつもりか?」
リクは、ダルボの瞳を真っ直ぐに見返した。
「恥をかかせるんじゃない。市長を、あの夜の止まったままの時間から、連れ戻したいんです」
ダルボは一瞬呆然とした後、ガハハと野太い声で笑った。
「……いいぜ。おもしろい。おれが持ってる最高の弦を張ってやる。その代わり、準備しな。あいつの氷を溶かすには、ただの音じゃ足りねえぞ」
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<ひかりは、”リクの物語”の違和感を通じて蒼太に自分の気持ちを伝えるが…>

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