あの手紙
僕の心臓の鼓動は、以前にも増して、微かで不確かなものになっていた。
世界は冷え切った静寂に覆われ、僕の孤独な城壁は、まるで氷でできたように、触れるものすべてを拒絶している。
『リクのスケッチブック』の続きを書こうなどという意欲は、微塵も湧かなかった。
それどころか、自分が物語を綴っていたという事実さえ、遠い前世の記憶のように霞んで思い出せない。
今の僕にとって、リクがその後どうなろうと、物語の世界が彩りを取り戻そうと、そんなことは、もうどうだっていい。
自分の魂を削ってまで、読んでほしいと願った相手はもういない。
誰にも届かない言葉を重ねることを考えると、僕は嫌悪感すら感じていた。
現実を生きる僕はただ心をなだめすかすように、裏庭の錆びたベンチに向かった。
そこは日陰になり誰にも見られることのない、僕の孤独な城壁の抜け穴だった。
ベンチに腰を下ろし目を閉じたその時。
「…神木君」
その静かな声に、僕は反射的に目を開けた。
目の前に立っていたのは高槻ひかりの友だちの一人、白石葵だった。
ひかりと文化祭の準備をしていた頃、駅前のカフェへ向かう僕たちを、あの射抜くような眼差しで見送っていたひと。
そして、ひかりが僕を完全に拒絶したあの日、廊下に立ち尽くす僕に「大丈夫?」と、あの温度のない声で問いかけてきたひと。
背の高い、いつも穏やかに微笑んでいるだけの、傍観者。
僕にとって、彼女は、雑然とした太陽の世界の静かな背景に過ぎなかった。
けれど、あのカフェで感じた「奇妙な熱」と、廊下で見せられた「冷徹な観測」の記憶が、今、目の前に立つ彼女の輪郭を、かつてないほど不気味に際立たせていた。
「…なに?」
僕の声は冷静を装ったが、内側では動揺が広がっていた。
葵は何も言わず、ただ手のひらを僕に向けた。
そこには、くしゃくしゃに丸められた、白い紙の塊があった。
僕の視線が、その白い残骸に釘付けになる。
僕があの日、読もうともせずゴミ箱に叩きつけた、あの手紙だ。
「…それを、どうして」
僕の喉が詰まる。
葵は、初めて、その静かな顔に痛ましい影を落とした。
「あの日、私は、教室の隅で見てた。高槻さんが、神木君にこれを渡して、そして、神木君がこれを読まずにすぐ捨てたとこも」
その言葉に僕を咎めるニュアンスはなかった。
ただ、事実だけを述べている。
「文化祭が終わった後、高槻さんが泣いているのを、私は何度も見たの。他の周りの人たちは誰も、高槻さんが傷ついていることに気づきもしていなかった…」
彼女は淡々と事実だけを口にした。
僕を責める激しさはどこにもない。
ただ、その瞳が僕をまっすぐ捉えたとき、そこに宿った「哀れみ」の温度だけが、僕の肌を刺した。
それは、友だちを傷つけた僕への怒りというより、もっと深く、僕という人間の核心を憐れむような、奇妙な熱を帯びていた。
彼女は、その罪の証拠を、僕の目の前のベンチにそっと置いた。
「この手紙に何が書いてあるのかは知らない、見てないから」
葵は、僕の顔をまっすぐ見た。
「でも、これだけはわかる。中身が何であれ、神木君はこれを知っておくべきだと思う。私がこれを神木君に返すのは、神木君のためじゃない。……ただ、高槻さんが神木君に何を伝えようとしたのか。それを知る義務があると思っただけ」
「もっと早く渡せばよかった? ……どうせ、また読まずにまた捨てたでしょう? 神木君が本当の自分に気づいて、心底絶望するのを待っていたの」
葵はそこで言葉を切り、ゆっくりと歩き出した。
だが、数歩進んだところで足を止め、振り返らずに、静かに付け加えた。
「……神木君は、自分がどれほど誰かを救い、どれほど誰かを壊すのか、全然分かっていない」
その掠れた声は、ひかりのための怒りなのか、それとも、ただ立ち止まっている僕への、彼女自身の嘆きなのか。
彼女の足音が遠ざかり、再び裏庭に死んだような静寂が戻るまで、僕はその真意を問い返すことさえできなかった。
ベンチの上に残された、白い紙の塊。
それは、僕が一度殺したはずの、彼女の「声」だった。
僕は震える手で、その拒絶の残骸を掴み取った。
丁寧に、丁寧に広げようとする僕の姿を見ることもなく、彼女は一度も振り返ることなく、そのまま校舎へと戻っていった。
指先に、紙の繊維がザラリと当たる。
乱暴に丸めて捨てられた時の、深い折り目の跡が、僕の、罪を証明している。
僕は深く息を吸い込むと、ついに、その拒絶した真実を目の当たりにする。
神木君へ
神木君をあんなに怒らせたのは、私の友達のせいじゃないと思います。
神木君が本当に嫌だったのは、私が被っている『太陽の仮面』の方だって、わかっています。 きっと、それは私がずっと、つきつづけている嘘だからです。 でも、わかってほしいんです。 私にとって、神木君と過ごした『たった一人のため』のアトリエこそが、唯一の嘘のない、私の逃げ場所だったことを。 神木君が、私の手を振り払って拒絶した日、私は、もう、どうしていいのか、わからなくなりました。 だから、決めたんです。 もう誰にも、本当の自分は見せないって。 でも、本当は、本当の自分でいたいんです。 私は、どうしたらいいか、わからない。 神木君だけが、私の仮面を、私自身で外すことを、助けてくれる鍵なんです。 お願いです。 水曜、金曜の放課後、 図書室のあの場所で待っています。 五分だけでいいんです。 私の話を聞いてください。 お願いします。 私の壊れそうな心を助けてください。高槻ひかり
僕の、手のひらから、血の気が引いた。
文字が、震えて、うまく視界に結ばない。
『助けてください』
助けを、求めていた?
ひかりが?
この僕に?
頭の中がぐらぐらと揺れた。
急に呼吸の仕方を忘れたように、喉の奥がヒューヒューと鳴る。
(これを読めば、僕の独善と、彼女の優しさの真意を嫌でも突きつけられてしまう……)
そうやって傷つくことから目を背け、僕が読まずにゴミ箱へと投げ捨てたただの紙くず。
その中に、彼女の命綱があった。
水曜。
金曜。
図書室のあの場所。
手紙の中の単語が、鋭い針になって脳髄をめちゃくちゃに突き刺してくる。
五分。
五分だけでいい。
彼女は、待っていたのだ。
僕が来るのを。
誰もいないあの静かな場所で、心臓を剥き出しにして、たった一人で。
二度も。
不快な冷や汗が全身の毛穴からどっと噴き出し、視界が明滅する。
愛の試み?
孤独の城壁?
ふざけるな。
僕が賢ぶって安全な場所から世界を批評していたその真裏で、僕は、最も不格好に助けを求めていた彼女の希望を、自らの手で首を絞めるようにして殺したのだ。
僕は、よろけながらベンチから腰をあげた。
目から涙がとめどなく溢れてくるのを、抑えることができず、 嗚咽しそうになるのを、歯を食いしばって、押しとどめた。
カバンを掴むと、玄関を抜け、学校の外へと走り出した。
通学路を抜け、大きな通りに出ると、我慢していた嗚咽が堰を切ったように、溢れ出した。
泣きながら走る僕に、すれ違う年配の女性が、怪訝そうな目を向けたが、どうでもよかった。
走りながら、記憶の断片が泥のように溢れ出してくる。
水曜日と金曜日。
その日、自分が何をしていたかすら、正確には思い出せない。
ただ、放課後になったらすぐに帰り、自室のベッドに寝転んで、動かない天井の木目を眺めていただけだ。
ひどく傷つけられたのは自分の方だと思い込み、安全な部屋のベッドに沈んで、ただ世界から耳を塞いでいただけなのだ。
僕が、天井を見ていただけの、あの無意味な空白の時間。
彼女は、図書室のあの場所で、僕という「鍵」が扉を開ける音を、一分一秒、祈るように待っていた。 五分だけでいい。
「なんてことをしたんだ」 「なんてことをしたんだ」 「なんてことをしたんだ」
僕はただ、ただ同じ言葉を繰り返して、名前をつけられない自分の感情から、ただ逃げるために走った。
自分がどこに向かっているかもわからないまま。
ただただ、走った。
ポツ、と。
熱を持った頬に、冷たい水滴が当たった。
空を見上げると、いつの間にか厚い灰色の雲が、街全体を重く覆い尽くしていた。
ポツ、ポツ、ザァァァァ……。
瞬く間に、世界は冷たい雨音に呑み込まれた。
制服が濡れて重くなり、僕の体温を奪っていく。
視界が白く濁り、すれ違う人々の顔も、街の輪郭も、すべてが雨のノイズに溶けて消えていく。
その光景を見た瞬間、僕の足が、凍りついたように止まった。
『それは、愛じゃない』
幻聴が、雨音に混じって鼓膜を殴りつけた。
あの日、僕自身がキーボードを叩いて生み出した、あの港町の光景。
ヒカリの悲鳴に気づかないふりをして、自分の美学に酔いしれたリクが、彼女に完全に拒絶され、見捨てられ、ただ一人残された、あの冷たい雨と廃棄物で溢れた場所。
「あぁ……」
絶望の声が、口からこぼれ落ちた。
予言だったのだ。
僕の書いたあのリクとヒカリの破局のエピソードは、僕自身が迎えることになる、この無惨な結末の完全な予言だった。
僕は、自分の傲慢さがいつか必ず彼女を壊すことを、無意識の底ではとっくに知っていた。
知っていて、その現実から逃げるために、美しい物語の中へと閉じ込めていたのだ。
自分の書いた物語の結末通りに、僕から鍵を取り上げられた彼女は、永遠に僕のいない場所へと去ってしまった。
そして僕は今、あの日のリクと全く同じように、冷たい雨の中で、誰にも届かない絶望を抱えて立ち尽くしている。
雨粒が、容赦なく僕を打ち据える。
彼女が塞いでいた耳の奥で聞いていたノイズは、こんなにも冷たく、痛かったのか。
荒い息を吐きながら、僕は逃げ込むように、通り沿いのコインランドリーの軒下に滑り込んだ。
店内から漏れ出る白々しい蛍光灯の光と、乾燥機のぬるい温風の匂いが、雨で冷え切った顔を撫でる。
ふと、暗いガラス窓に映る自分の姿が視界に入った。
雨と汗で前髪が額にべったりと張り付き、肩を上下させて必死に息を吐いている、惨めな姿。
手の中には、雨と指の圧力でふやけ、原型を失いかけた一枚の紙くず。
ガラスの中の男は、悲劇の主人公でも、孤独な作家でもなかった。
物語で誰かを救うなんて、虫のいい妄想だった。
そこに映っていたのは、ただ、雨に濡れそぼった、何も見えていなかった、どうしようもなく身勝手で愚かな子供だけだった。
次話(44話 沈黙ツケと底なしの絶望)へリンクする

コメント