【小説】あの夏の光(29)カフェの3人

小説

「愛の試み」を決意した蒼太は、逃避を止めて自分を磨く闘いを始める。作業中のアクシデントをきっかけにひかりと心から笑い合い、かつてないほど距離を縮めた二人の創作は、孤独な営みから二人の「作戦」へと昇華された。文化祭直後にひかりの誕生日があることを知った蒼太は、彼女が思い入れを持つ『はてしない物語』を贈ろう考える。執筆を再開したリクの物語を巡って、ひかりから本質的な違和感を伝えられるが、蒼太は表面的なアドバイスだと受け取る

カフェの3人

僕たちの、ガラクタのアトリエでの創造は順調に進んでいる。
窓枠は立ち上がり、黒い壁には獣道の森が、その複雑な輪郭を現している。
古いものばかりを使うという「反乱」のルールを守ってきたが、どうしても足りないものがあった。
和紙を固定するための強力な接着剤と、チョークの粉を定着させるスプレーだ。

「こればっかりは、さすがに買わないとね」
ひかりは、リストに書き出した品目に赤ペンで印をつけた。
「駅前のホームセンターに行こうよ、神木君」

放課後。
僕たちは、学校とは違う空気のざらつきを持つ、駅前の喧騒の中にいた。
ホームセンターの照明器具コーナーを通りかかった時だった。
僕の足が止まった。
展示用の和紙に、小型のスポットライトが当てられていた。
その、繊細な光を透過した和紙の繊維が、まるで生きているかのように魂を宿した美しい白となって、輝いていた。

「……神木君?」
ひかりが僕の視線を追った。
「あの、ライト……」
僕は呟いた。
「僕たちの和紙の壁画にも、ああいう、『光』が、いるんじゃないか」

僕たちは『ガラクタの反乱』を掲げ、『廃材のみ』というルールを課してきた。
だが、僕の『目』は、あの和紙の『魂』を、『光』という『形式』によって完成させなければならない、と訴えていた。
僕が手に取ったライトには、無機質な値札が貼られていた。
『¥5,280』 一瞬で、僕の熱は冷めた。
五千円以上。
それは僕たちの『反乱』のささやかな予算と、『ガラクタ』という僕たちの精神性を、完全に裏切る金額だった。

「だめだ、ルールを破っちゃいけない」
僕はそっとライトを棚に戻した。
「接着剤とスプレーだけ買おう」
ひかりは僕に何も言わなかった。
ただ、僕の葛藤と断念を黙って見つめていた。

買い物を終え、レジ袋を片手に僕たちはホームセンターを出た。
学校へ戻るには、まだ少し陽が高かった。
その時だった。
ひかりがふと立ち止まり、駅のロータリーに面した古い雑居ビルの二階を見上げた。
そこには普段なら誰もが見過ごしてしまいそうな、目立たない、しかし蔦の絡まる落ち着いた佇まいの喫茶店の看板がかかっていた。
『カフェ・ガラス玉演戯』

「ねえ、神木君」
彼女は僕の方を振り返った。
「せっかくだし、あそこで、お茶でもして帰らない? 今日はすごくいい進捗だったから、ご褒美に」
その、あまりに自然な「ご褒美」という提案。
「え……か、カフェ……?」
僕の心臓は、驚きと緊張で強く跳ね上がった。
僕は手に持ったレジ袋を思わず握りしめた。
僕の人生で「高槻ひかり」と「カフェ」という単語が、同じ文脈で並ぶことなどあり得ないと思っていたからだ。

「う、うん。いいけど……」
僕の答えが肯定だと知ると、ひかりは僕の少し強張った顔を見て、くすっと小さく笑った。
そんな、僕たちの間に漂う密やかな空気の断層に、不意に別の声が差し込まれた。

「……高槻さん」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
振り返ると、少し離れた場所に、一人の女子生徒が立っていた。
同じクラスの、高槻ひかりのグループの誰かだ。
いつもひかりの斜め後ろにいて、穏やかに微笑んでいるだけの、僕にとっては風景の一部でしかなかった少女。

「あ、白石さん! こんなところで、どうしたの?」
ひかりが驚いて声を上げる。
白石、という名前だったか。
僕はそこで初めて、彼女の輪郭を個別の人間として認識した。
「本屋さんの帰り。……買い物?」
葵と呼ばれた彼女は、ひかりの問いに微笑みで応えながらも、その視線は、僕が握りしめているホームセンターのレジ袋へと向けられていた。
ひかりが親しげに話すのを、僕は一歩引いた場所で眺めていた。
彼女はひかりには柔らかな「友愛」を向けている。
だが、僕に向けられるその瞳の奥には、何かを確かめるような、静かで、底の知れない「熱」が潜んでいるように感じた。

僕がひかりという光に触れていることを、彼女は、以前からずっと、教室の中で観測していたのではないか。
名前すらあやふやだったはずの少女に、自分の隠しておきたかった変化を静かに見抜かれているような、嫌な予感が背中をかすめた。

「……お邪魔しちゃったかしら。それじゃ、私はこれで」
白石さんは、最後に僕を一度だけ見つめると、人混みの中へ消えていった。
僕たちの聖域に、取り返しのつかないひびが入ったような嫌な予感が背中をかすめた。


店の中は、驚くほど静かだった。
外の喧騒が嘘のように遠い。
クラシック音楽が小さく流れ、焙煎された豆の香ばしい匂いがした。
壁には何枚か抽象的なリトグラフが飾られている。
その中の一枚、青い背景に卵の殻を破ろうとしている一羽の白い鳥の絵が、なぜか妙に僕の心に引っかかった。

僕たちは、線路を見下ろす窓際の席に並んで座った。
僕は、目の前で僕と同じ空間にいる高槻ひかりという現実が、あまりにも甘美で夢のようだった。
コーヒーカップを持つ指先がわずかに震える。
彼女の声が僕の名前を呼ぶたびに、胸の奥が温かく痺れた。
僕は、この緊張と幸福が入り混じった完璧な瞬間を忘れないように、必死で記憶に焼き付けた。

その時だった。
カフェの入り口から一人の男性が入ってきた。
柳先生だった。
彼は僕たちを見るなり一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの皮肉な笑みを浮かべた。
「おや、これはこれは。反乱軍のお二人さんじゃないか。こんなところで作戦会議かね」

先生は僕たちのテーブルに向かい合うように座った。
僕は体が凍りついた。
「せ、先生!」
ひかりが驚きの声を上げる。
「びっくりしたー! 先生も休憩ですか?」
「休憩というより、避難だな」
先生は僕の緊張を意にも介さず言った。
「職員室は文化祭の熱気に浮かされて、まともに本も読めん。ここは駅前で唯一、まともなコーヒーを出す貴重な場所でね」

先生は慣れた様子で店員を呼び、いつものとでも言うようにブレンドを一つ注文している。
先生はコーヒーを一口飲むと、僕の方をまっすぐに見た。
その目は、すべてを見透かしているようだった。

「どうだね、神木。君たちのその、『たった一人のための物語展』は。……面白い、試みだ。孤独を聖域にしていた君が、それを他者に届けようとしている。実に、興味深い『変容』だな」

先生は、僕があの応接室で突きつけられた「絶対零度の自画像」のことを言っているのだ。
僕の本質を、逃げ場のない活字にして同人誌へと連れ去ったこの人は、今度は僕がその「城壁」を自ら壊そうとしていることすら、すでに予見していた。
僕は、ひかりの隣で、自分の内臓を冷たい指でまさぐられているような、不思議な戦慄を覚えていた。

「高槻さん。君がその、『触媒』というわけか」
先生はひかりに目を移した。
「……触媒、ですか?」
「ああ。停滞していた物質を動かす力だ。だが劇薬にもなる。……君たちのその共同作業が、どんな『形式』を生み出すのか、楽しみにしているよ」

先生の言葉は、まるで僕の心の奥底で起こっている変化を正確に言い当てているかのようだった。
この人からは何一つ隠し通せないのだという、絶望に近い畏怖が僕の背中を伝う。

「……それにしても、『たった一人』とはな」
先生はコーヒーカップを置き、腕を組んだ。
「それは傲慢な逃避の言い訳ではないかね? それとも、『この世界でたった一人、君だけのために』という個人的な『私信』ではないかね?」

その、あまりに冷徹な分析。
僕の顔が熱くなるのを感じた。
「違います」
ひかりがまっすぐな声で言った。
「それは、誰かたった一人が自分の孤独を肯定できる場所を作る、ということです。誰にも見せたくない、自分の一番大切な宝物を、誰かに見てもらう勇気が生まれる場所を、です」

ひかりのその言葉に、僕はただ頷くだけだった。
先生も満足そうに頷くと、しばらく僕たちの展示準備の打ち合わせの会話を楽しむかのように、そこに座っていた。

「あ、ねえ神木君。さっきからショーケースのケーキがすごく美味しそうで……。ちょっと見てきてもいい?」
ひかりが、そわそわとした様子で席を立った。
「あ、じゃあ、僕も……」
僕も立ち上がろうとしたが、ひかりが制するように手を振った。
「いいよ、神木君は座ってて。私が選んできてあげる。何がいい?」
「……じゃあ、高槻さんと同じやつで」
「了解! 先生も何か食べます?」
「いや、私は結構だ。甘いものは、人生の苦味だけで足りているんでね」
柳先生のいつもの皮肉に、ひかりは「相変わらずですね」と笑いながらカウンターの方へ向かった。

テーブルには、僕と柳先生の二人だけが残された。
店内を流れるクラシック音楽の音量が、不自然に大きく感じられた。
先生はコーヒーカップを置くと、窓の外を走る電車の轟音に耳を傾けるようにして、静かに口を開いた。

「神木。……この店の名前の意味を、知っているか」
「え……ガラス玉演戯、ですか……」
「ヘルマン・ヘッセの、最後の長編小説のタイトルだ。 知的エリートたちが、現実を遮断した塔の中で、完璧な精神の遊戯を極めようとする物語。……だが、その結末で主人公は、その理想郷を捨てて現実世界へ降り立ち、教え子と共に泳ごうとした冷たい湖で、あまりにあっけなく溺れ死ぬ」
先生の声は、ひどく低く、独り言のように響いた。
「……理想だけで作られた体は、現実の水の冷たさには耐えられないということだ」

先生の声は、ひどく低く、独り言のように響いた。
「……昔な。私も、この席で、ある女性と向かい合っていたことがあってね」

僕は息を呑んだ。
先生は僕を見ず、ただ、ひかりが座っていた空っぽの椅子をじっと見つめていた。
「彼女は、その完璧な演戯の外側へ、私を連れ出そうとしてくれた。……だが、当時の私は、自分の作り上げた孤独という名の形式を壊すのが怖くて、その手を振り払った。……それ以来、私はずっとこの湖の岸辺で、凍りついたまま立ち往生している」

先生の瞳に、西日の逆光が入り込み、その表情を読み取れなくさせた。
「神木、……泥まみれの手で握る手の方が、遠くから眺める光よりずっと温かいぞ。お前は、私のような『形式の亡霊』にはなるなよ」
僕は思わず自分の手を見た。
ペンキや接着剤で汚れていたはずの僕の手は、今、カフェの温かいおしぼりで綺麗に拭い去られていた。
その不自然な白さに、僕は底冷えするような恐怖を覚えた。

その時、ひかりの楽しげな声が近づいてきた。
「お待たせ! すごい迷っちゃったけど、結局イチゴのタルトにしたよ。神木君、それでいいよね?」

先生の表情が、一瞬でいつもの皮肉な仮面へと戻る。
「やれやれ、これだから若者は。反乱軍の貴重な資金をイチゴに変えるとはな」

だがやがて、壁の時計を一瞥すると、柳先生はレジの方へ向かい、お会計を済ませた。

「さて。私はそろそろ行かねばならない。次の仕事が待っているんでね」
先生は席を立つと、僕たちのテーブルに戻ってきた。
「これは君たち、反乱軍へのカンパだ。受け取っておきなさい」
先生はそう言って、一万円札を二枚、テーブルの上に無造作に置いた。

「え、先生! こんなに多すぎます!」
僕は慌ててその束を押し返そうとするが、先生はそれを手で制した。
「多い? そうかい。まあ、余ったら本でも買いたまえ。君たちの創造のための投資だよ」
先生は僕たちの動揺を楽しむかのように笑いながら言った。

「では、健闘を祈る。『魂』と『形式』の両方を満たす、美しい展示を楽しみにしているよ」
そして彼は僕たちに背を向け、ドアの向こう側へと去っていった。
テーブルの上には、先生が残していった不自然に多いカンパと、運ばれたばかりのイチゴのタルトの甘い匂い、そして先生が飲んでいたコーヒーの苦い残り香だけが残された。

僕とひかりは顔を見合わせた。
「……なんか、期待してくれてるみたいだね」
ひかりがテーブルの上のお札を指でつんと突いた。
「あのライトが買えるね。最初からカンパしなかったのは、私たちの本気を試したのかな」
「……かもしれないね」

この奇妙な体験が、僕たちの間の緊張を解きほぐした。
ひかりは窓の外を見た。
線路の向こうを、電車が轟音と共に通り過ぎていく。
「……先生、あの言葉、言ってたね」
ひかりが静かに口を開いた。
「『魂』と『形式』かぁ。……神木君のことも、本当によく見てるんだね」
「……そうなのかな」
「うん。だって神木君のあのスケッチブック、まさにそうだから」

彼女は僕の目をまっすぐに見つめた。
「『たった一人』のための、誰にも見せない剥き出しの『魂』がそこにあった。だから、私、知りたいって思ったんだもん」
ひかりのその言葉。
彼女が僕の作品の本質を肯定してくれた、その温かい眼差し。
それが、僕の最後のためらいを溶かした。

「僕のお母さんは、書道家なんだ」
僕はコーヒーカップを両手で包み込みながら、静かに話し始めた。
「母は『書』のことだけを考えて生きている人なんだ。お金の話とか、誰かに評価されることをすごく嫌う人で……。まるで、そういう『外の世界』が自分の大切なものを汚してしまうみたいに、いつもピリピリしてるんだ」

「僕が小さい頃に、描いた絵がコンクールで入選したことがあるんだ。でもお母さんは喜ぶどころか、すごく心配そうな顔をして僕に言ったんだよ」
僕はあの時の、母の悲しそうな目を思い出した。
「『あなたのその感じ方は美しいけど、脆すぎる。そのまま世界に出たら、きっと誰にも理解されず、あなたは傷つくことになる』って」

「それからお母さんは、僕を必死に守ろうとしたんだと思う。僕が傷つかないように、僕の周りに安全な壁を作って……僕が『普通』でいられるように」
「お母さんは自分の書の世界の中ではあんなに自由なのに、僕が外の世界に出ることを極端に怖がった。僕の『ガラスの部屋』は、お母さんのその強すぎる優しさの中で作られた逃げ場所だったんだ」

僕は僕の孤独のプロファイルを、初めて他者に告白した。
ひかりは黙って僕の話を聞いていた。
彼女は僕が話し終えると静かに頷き、そして僕がさっきから気になっていた壁の絵を指差した。
あの、卵を破ろうとしている白い鳥の絵。

「……デミアンみたいだね」
ひかりが囁いた。
「え……」
「ヘルマン・ヘッセの。『鳥は卵から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない』……」
彼女はその一節を暗唱した。
「今の神木君みたい」

僕は言葉を失った。
彼女は僕の告白をただ受け止めただけじゃない。
僕の孤独の原型を『デミアン』という、僕たちの展示の始まりとなった本と結びつけ、僕が今やろうとしている「反抗」を肯定してくれたのだ。
僕には、もうそれで十分だった。

僕の「庇護からの脱出」という戦いを、彼女は完璧に理解してくれた。
僕の恋心は、この瞬間、絶対的な信頼へと変わった。
テーブルの上には、柳先生が残していった不自然なカンパがキラキラと輝いていた。
僕とひかりの共犯関係は、もう誰にも止められない速度で、現実の世界へと溶け出そうとしていた。

次話(30話 お金で買われた光)へリンクする
<柳先生のカンパがふたりの想いの違いを露わにし、こころをすれ違わせていく…>

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