【小説】あの夏の光(25)愛の試み

小説

ひかりとの「決定的な温度差」を突きつけられ、孤独の監獄へ引き戻された蒼太。やり場のない劣等感から逃れるように夜明けを走る「儀式」に没頭するが、その逃避はかえって自分自身の無価値さを浮き彫りにしていった。そんなとき、Libから「書くことから逃げたか」という問いが届く。欺瞞を射抜かれた蒼太は、誰のためでもない自分自身の魂を救うために再び書く覚悟を決め、キーボードの前に座る。

愛の試み

あの日、夜明けの光の中で僕は走るのをやめ、家に戻った。
Libの問い「書くことから逃げたのか?」
それは、僕がずっと目を逸らし続けてきた、僕自身の魂の弱さを容赦なく突きつけていた。
僕は久しぶりにパソコンの電源を入れた。
まだ何も書けない。
だが、もう逃げないと決めた。
僕はただ静かにキーボードの前に座り、空白の画面を見つめ続けた。
以前、Libの鋭い指摘に言葉を失うたび、僕は縋るような気持ちで何度か返信を送ったことがあった。
だが、Libから個別の「返事」が届いたことは一度もない。
画面の向こう側の彼は、僕の物語を冷徹に観測し、ただ容赦ないコメントを叩きつけてくるだけの存在だった。
画面に光る「逃げたのか?」という問い。
その短い文字列が、僕の喉元に刃を突きつけている。
僕は少しの間を置き、カタカタと乾いた音を立ててキーボードを叩いた。  
今までのような、理解を乞うための「言い訳」でも「質問」でもない。
『逃げません。Libさん。あなたの言葉に僕は自分の絶望を引き受ける勇気をもらいました。ありがとうございます。』
最後まで打ち込み、エンターキーを強く押す。  
送信されたメッセージは、暗闇の中に吸い込まれて消えた。
返事なんて、もう期待していない。  


翌日の昼休みだった。
教室で一人本を読んでいた僕の元に、柳先生がひょっこりと顔を出した。
「神木、少し時間いいか? 放課後、応接室に来てくれ。渡したいものがある」
その静かな口調には、有無を言わせぬ響きがあった。

放課後、僕は緊張しながら職員室の隣の応接室の扉をノックした。
部屋の中には、柳先生が一人だけで机に向かっていた。
「ああ、来たか。まあ座りたまえ」
先生は僕にソファを勧めると、一冊の真新しい小冊子を差し出した。
それは手作り感のある、小さな文芸同人誌だった。
「例のものだ。君の詩、ここに載せさせてもらったよ」
先生が開いたページ。
そこには、僕のあの匿名の詩『固有名詞のない、わたし』が、静かな明朝体の活字となって印刷されていた。
自分の魂の告白が、美しい紙の上に定着している。
「……ありがとうございます」
僕はかろうじてそう礼を言った。
先生は満足そうに頷くと、今度は一冊の古い文庫本を差し出した。
福永武彦『愛の試み

「これは、個人的に神木に貸そう」
先生はその本を僕の手にそっと置いた。
「君の詩を読んで、なぜかこの本のことを思い出してね。……今の君が読むべき本のような気がした」 僕はその古びた本のタイトルを見つめた。
『愛の試み』
僕にはあまりに縁遠い言葉だった。
先生は僕の戸惑いを見透かすように、静かに続けた。

「愛するということは、どうしようもなく滑稽で、不格好で、そして痛みを伴う試みだ」
先生は窓の外を見ながら言った。
「人は愛することで、自分が大切に守り抜いてきた孤独という名の城壁を、自らの手で破壊しなければならなくなる。自分の中心に他者という制御不能な異物が入り込んでくる痛み。その覚悟がなければ、人を本当の意味で愛することなどできはしない」

その言葉。
僕は息を呑んだ。
それは僕が今まさに直面している恐怖の正体、そのものだった。
ひかりを想うことで、僕の完璧だったはずの孤独のガラスケースが、内側から激しく震え、砕け散ろうとしている。

「君の詩は、完璧な孤独の城壁を描いていた」
先生は僕の目をまっすぐに見つめた。
「だが君は今、その城壁の外に出ようとしている。違うかね?」
僕は何も答えられなかった。

「孤独を賭けて誰かを愛すのか。それとも愛を諦めて孤独を守るのか。……どちらが正しいかなんて答えはない。それは君自身が選び取るしかない試みなのだよ」
先生はそこで一度言葉を切り、自分のデスクの上にある、使い古されたように見える万年筆に指を触れた。
「私はかつて、後者を選ぼうとした。だが、結局は失敗したよ。孤独という城壁を、相手に壊される前に、自分自身の手で爆破してしまったんだ」

先生は自嘲するように笑った。
その笑みは、勝利者のものではなく、激しい戦いの末にすべてを焼き尽くされた焦土を見つめるような、静かな絶望と、わずかな充足が混ざり合ったものだった。

「……城壁を壊したあとの景色は、決して美しいわけじゃない、神木。風通しは良くなるが、冬の寒さがダイレクトに身に沁みるようになる。私はその寒さに耐えかねて、こうして図書室の影に逃げ込み、本という名の防寒着を何枚も着込んでいるわけだ」
先生は僕の手に置かれた古びた文庫本を、上からそっと押さえた。
「この本には、かつての私の、あまりに無様で、救いようのない足掻きの跡がこびりついている。正直、私にとっては今さら読み返したくもない代物だが……今の君になら、この『苦い薬』が効くかもしれない」

先生はそれだけを言うと、「まあ読んでみたまえ」と、いつもの皮肉な笑みを浮かべた。
僕は同人誌と福永武彦の文庫本を手に、応接室を後にした。

帰り道、僕はずっと考えていた。
先生の言葉。
『孤独を賭けて愛すのか』
僕の頭の中に、ひかりの笑顔が浮かぶ。
アトリエでペンキに汚れて笑う顔。
僕の物語を読んで「すごいね」と言ってくれた顔。
カラオケに誘われ、僕に申し訳なさそうに手を合わせた顔。
そのすべてが、僕の孤独の城壁を内側から激しく叩き続けている。

家に帰り着き、自分の部屋で福永武彦の本を僕はまじまじと眺めた。
文庫本の背は、何度も開閉を繰り返したせいで深いシワが走り、いまにもそこからバラバラに崩れ落ちそうだった。
ぱらぱらとページをめくると、ある一節の横に、ブルーブラックのインクで激しく波打つような線が引かれているのが目に入った。
「……っ」
その線の鋭さは、まるで鋭利な刃物で紙を切り裂こうとした跡のようだった。
活字の美しさを踏みにじるように、しかし、そこに残された柳先生の筆跡。
それは、孤独という城壁を守るために、先生自身の心に負わせた傷跡そのものに見えた。
先生が「読み返したくもない」と言った理由が、指先から伝わるインクのわずかな凹凸を通して、僕の奥深くまで流れ込んできた。

そして、夢中になって読み続けた。

人は遠くから恋人を眺めて、幻視的な夢想に沈むことで満足するか、それでなければ自己の孤独を一層苦しくする危険を冒してでも、愛を試みるかしなければならない。試みとはためしにやってみるということではなく、そこに自己の危険を賭けようとする意味である。

愛というものは、人が対象を決定し、その相手を愛すると自分に誓った上からは、その愛がどのような結果を招こうとも、それは彼自身の責任で、相手の責任ではない。

僕は本を読み終え、そっと閉じた。
もう、答えは出ていた。
僕は、ずっと間違っていたのだ。
ひかりへの想いをどうするべきか、などと考えていたこと、そのものが。

好きか、嫌いか。
付き合えるか、付き合えないか。
そんな勝ち負けのような二元論で、このどうしようもない感情を裁こうとしていたこと、そのものが。

試み、なのだ。
先生もこの本も、そう言っている。
ならば、僕にできることは一つしかない。

僕は、ひかりを愛そう。
ただ、ひたすらに。
この胸の中で燃え盛る、どうしようもない光をありのままに受け入れよう。
その光が、僕の孤独の城壁を焼き尽くし、僕を無防備な弱者に変えてしまうとしても。
その光が、大和くんという別の太陽の前で、みすぼらしく色褪せてしまうとしても。

それでもいい。
僕は、ただ彼女を愛そう。
その痛みを引き受けよう。
それが、僕にできる唯一の誠実な「愛の試み」なのだから。

僕はパソコンの電源を入れた。
そして、空白だった画面に最初の一行を打ち込み始める。
それはひかりへの返信でも、Libへの回答でもない。
僕自身の魂への、誓いの言葉。
孤独を賭けて、世界にたった一人の少女を愛することを決意した、男の物語の始まりだった。

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