【小説】あの夏の光(40)半歩の拒絶と残された夜の祈り

小説

文化祭の日。自らの想いが独善に過ぎないと悟った蒼太は、自己嫌悪から二人で創った『星空』を壊し、ひかりとの関係を完全に断ち切る。
以降、互いを透明な存在としてやり過ごす冷え切った日々。ある日、ひかりは涙の滲む手紙を残すが、傷つくことを恐れた蒼太は読まずに捨ててしまう。
再び孤独な世界に引きこもる蒼太。しかし夜には彼女の夢を見て涙で目を覚まし、鏡の自分へ「大丈夫だ」と虚しく言い聞かせるのだった――。

半歩の拒絶と残された夜の祈り

季節は移り、校舎を吹き抜ける風が少しずつ冷たさを増していった。
秋の気配は、僕の心を覆う冷気と驚くほど調和していた。
僕は誰も来ない夕暮れの図書室で、ページを繰る音だけを聞きながら、世界と自分を隔絶し続けていた。
あの手紙を捨ててから、一ヶ月が経とうとしていた。
僕の眼の前には、いままで身を守ってくれていた部屋のガラスが粉々に散らばって、
その先には、地平線まで荒涼とした世界がただ広がっているだけだった。

リクとヒカリの物語もあの決別以降、僕は書き進めることをしていない。
いや、サイト自体開くことさえ、していない。
あの痛々しいリクとヒカリの状況にきっと、Libはコメントを書いてくるだろう。
だけれど、こんな状況のなかでLibからのいつもの辛辣なコメントを目にすることは、
僕の今の精神状態では、到底、耐えられないだろうと思っていた。
僕がひかりを避けるのと同じくらい、いや、それ以上にひかりも僕を避けているようだった。
一度、廊下の角で鉢合わせになりかけたことがあった。
彼女の足が、一瞬止まる。
僕は反射的に視線を床に落とし、まるでそこに興味深いシミがあるかのように熱心に見つめた。
僕たちがすれ違う、ほんの数秒。
僕は彼女の息遣いすら感じ取ろうとしなかった。

しかしその時、僕の耳は彼女の微かな、しかし決定的な行動を捉えた。
彼女は僕の存在を避けるように、半歩、僕から遠ざかるように壁際に寄ったのだ。
その小さな、無意識の拒絶が、僕の心を深く抉った。
文化祭以前、ひかりは僕の影の領域に躊躇なく足を踏み入れてくれた。
僕の陰鬱さも、閉じた世界も、彼女にとっては障壁ですらなかった。
しかし、今は違う。
僕自身が彼女との間に、触れることのできない拒絶の壁を築いたのだ。
彼女のその「半歩」は、僕が手紙を捨てた行為に対する、静かで最終的な返答のように感じられた。

(これでいいんだ)
僕は心の中で繰り返す。
彼女は安全な場所にいる。
僕の自己嫌悪と独善的な愛から遠く離れた場所に。
だが、ときどき耐えられないほどの虚無感が僕を襲った。
それは愛を失った悲しみではない。
「愛する覚悟」を持てなかった、自分自身への軽蔑だった。
僕はあの時、もし手紙を読んでいたならどうなっていただろうかと、考えることを止められない。
彼女の言葉に触れ、たとえそれが、大和たちのグループに戻るための「優しい別れの言葉」だったとしても、それを受け入れることこそが真の愛の試みだったのではないか。
僕がしたことは愛ではなく、ただの臆病な自己保全だった。

その日、図書室で読んでいた本の文字は、全く頭に入ってこなかった。
ふと、僕は視線を上げた。
図書室の片隅、僕たちが柳先生のカンパの余りで作った木枠の掲示板が、嫌でも視界の端に入る。
そこには今、文化祭の余韻のように、生徒たちが匿名で綴った詩や、好きな本の一節が何枚もピンで留められていた。
けれど僕は、あそこに何が貼られているのかを確かめようとしたことは一度もなかった。
あの掲示板を見ることは、あの日々を、そして彼女のことを思い出すことと同義だったからだ。
それを見れば、僕が何を失い、何を壊したのかを突きつけられるような気がして、僕は無意識にそこから視線を逸らしてきた。

しかしその日、掲示板の前には一人の女子生徒が立ち止まっていた。
図書室にやってきたその図書委員の同級生は、掲示板から目を離さずに、唐突に僕に声をかけてきた。

「あの、文化祭の時……あの展示、よかったよね。詩とか小説を飾ってたやつ。……それと、この掲示板も」

驚いたものの、僕は素っ気なく答えた。
「……そう?」
図書委員の最初の会議で、負担が多い展示に反対の声をあげていた女子だった。

「あれ、見たらさ。なんていうか、とても純粋な展示だなぁと思ったんだよ。特に、あの壁画の森の奥。とても綺麗だったよ。……一人で描いたの?」
「いや、僕と……あの、高槻さんと」
彼女の名前を口に出すだけで、胸の奥が針で刺されたように痛んだ。

「そうなの。あれ、とてもよかった。賑やかな文化祭が苦手だったから、なんだかほっとしたよ。あの森の中には、ちゃんと星が灯っていて。あの星が、見てる私に寄り添ってくれるような……そんな感じがして」
「あの星は、あの絵を見た『たった一人の誰か』のための星だと感じた……」

彼女の訥々と語るその声は大和たちのような眩しい響きを持っていなかった。
だからこそ、その静かな肯定は、僕が必死で積み上げた孤独の城壁を音もなくすり抜け、胸の奥に届いてしまった。

「最初の会議のときさ、私『どうせ誰も来ない』なんて言っちゃったでしょ。委員長も、毎年来る生徒は全体の1割にも満たないって、データ、出してたし」

同級生は自嘲気味に小さく笑って、掲示板に視線を戻した。
「でも、全然違ったよね。あの二日間、私みたいに、外の賑やかさがちょっとしんどかった人たちが、吸い寄せられるみたいにたくさん、図書室に足を運んでさ……。みんなあの森の絵の前で、じっと立ち止まってた。いつもは冷え切ってる図書室が、あんなにたくさんの人の静かな体温で満たされてるの、私、初めて見たよ。高槻さんが最初の会議で言ってた通りの、特別な場所になってたよね」

そこで言葉を切ると、彼女は少し寂しそうな目で僕を見た。
「神木君、文化祭のあとは委員会に全然来なくなっちゃったから、知らないと思うけど……」

「文化祭が終わったあと、この掲示板を残すって委員会で高槻さんが言った時、みんな『お祭りは終わったんだから意味ない』って反対したんだよ。でも高槻さん、一歩も引かなくてさ。……あそこに集まったみんなの足跡を、無かったことにしたくないって、すごく……怖いくらい……本当に真剣だった。私、その会議で何も言えなかったから……これを見ると、高槻さん、ほんとすごいなぁって思うよ」

僕は言葉を失った。 
(ひかりが、委員会で……?)
僕の知らない場所で、彼女は僕らの「星空」を守るために、あの掲示板という居場所を遺すために戦っていた。
僕が孤独という名の要塞に逃げ込み、彼女を「太陽の世界の住人」だと決めつけて拒絶していた間も、彼女は僕の物語の理解者であり続けようとしていたのだ。
僕が「不純だ」と遠ざけようとした柳先生のお金を使って、彼女は僕と、そして僕と同じように震える誰かのための「形式」を刻もうとしていた。
彼女の「やさしさ」が、僕の狭い独善を無残に暴いていく。

同級生はそれ以上何も言わなかった。
ただ、僕の返事を待つように静かに立っていたが、僕は何も言えなかった。

同級生の女子生徒が立ち去った後、図書室は再び、耳が痛くなるような静寂に包まれた。
僕は吸い寄せられるように、その木枠の掲示板の前に立った。
柳先生がくれた「お金」という、僕が汚らわしいとさえ感じた現実の力が、ひかりの手によってこれほどまでに静謐な、魂の受け皿へと変えられていることを目の当たりにした。
その事実が、僕の立っている足元を激しく揺さぶる。

掲示板には、数枚のルーズリーフの切れ端や、色あせたメモ用紙が並んでいた。
そこにピン留めされた名もなき声たちが、容赦なく僕の視界になだれ込んでくる。

こんなにも遠くまで来たのに何も見つからない

だれも好きじゃない、でも、自分が一番好きじゃない

胸をかきむしるような殴り書きの自己嫌悪。
それは、孤独の被害者を気取って殻に閉じこもっていた、僕自身の醜い自意識そのものだった。
だが、その暗い呪詛のすぐ隣には、別の、不器用なほどまっすぐな体温が震えている。

あなたと廊下ですれ違う、それだけで幸せ

僕の胸に、そのあまりに健気な言葉が、鋭いナイフとなって突き刺さる。
ひかりと、すれ違う瞬間の恐怖に怯え、目を逸らした僕とは違う、誰かの純粋な祈りがそこにはあった。

さらに視線を巡らせれば、教科書の余白をちぎったような紙片に、冷ややかな、けれどどこか切実な一節が並んでいる。

炎に包まれるあの人たちに、僕たちは、ただ見とれている

ぼくはずっと愛してる、たとえ、あなたが絵の中のひとでも

眩しい世界の熱狂に馴染めず、ただ遠くから見つめることしかできない虚無。
現実の人間を恐れ、虚構のなかにしか自らの真心を見出せない、未成熟で歪な告白。

誰もいない図書室の片隅で、自分の内臓を吐き出すようにして遺された、名もなき誰かの叫び。
僕が不純だと切り捨てた柳先生の掲示板は、いつの間にか、僕と同じように息もできずに震えていた誰かの、唯一の呼吸の場所になっていたのだ。

その雑多な感情の重なりの一番隅に、場違いなほど真っ白で、几帳面に切り揃えられた小さなカードが一枚、真鍮のピンで留められていた。
僕は、その筆跡を見た瞬間に息が止まった。
丸っこいけど、どこか力強い、何度も目にしたあの文字。

星をつなぐのは、星座という形式
人をつなぐのは、物語という月の光
ここに零された全ての声が、 静かに満ちていく、夜の祈りでありますように

名前は書かれていなかった。
けれど、それは紛れもなく、ひかりが残した一片だった。
僕はそのカードの白さに、目が眩むような感覚を覚えた。

(……なぜだ)
なぜ、常に太陽の下にいるはずの彼女が、これほどまでに「月の光」の静けさを知っているのか。
「静かに満ちていく、夜の祈り」
その言葉が、僕の乾ききった胸の奥に、冷たい水のように染み込んでいく。

僕がゴミ箱に投げ捨てたあの手紙には、一体何が書かれていたのだろう。
彼女は、どんな顔でこのカードをここに留め、そして、あの廊下で「半歩」の拒絶を選んだのか。
僕は、掲示板の前に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえ、その「祈り」の一節を、ただじっと見つめ続けた。
捨ててしまったあの手紙の白さが、今さら猛烈な熱を持って僕の脳裏を焼き始める。

冬の足音が聞こえる図書室の静寂の中で、僕は自分の孤独がどれほど救いようのないものかを、ただ立ち尽くして味わうことしかできなかった。

次話(41話 仮面の告白)へリンクする
<ガラスの部屋に戻った蒼太に柳先生は一編の詩を見せる>

コメント

タイトルとURLをコピーしました