「決別」の章を書き直す恐怖から逃げ出した蒼太。アトリエでは、ひかりの提案によって、名もなき言葉たちのための「魂の避難場所」となる掲示板を作ることになった。作業の合間、ひかりは『亡き王女のためのパヴァーヌ』の冷たい旋律を響かせ、忘れられた王女に自らを重ねるように声なき涙を流す。しかし蒼太は、彼女の剥き出しの孤独とSOSに直面する恐怖から目を逸らし、その涙を「美しい音楽に対する清らかな感動」という、自らを脅かさない安全な「形式」へと無意識に閉じ込めてしまうのだった。
完璧な形式と地下室のネズミのような指
文化祭の開幕まで、残すところあと四日。
アトリエの窓枠の和紙はすべて張り終えられ、『獣道の森』の壁画には『共犯の青』が静かに夜空を広げている。
僕たちの『たった一人のための物語展』は、技術的にも、魂の上でも、完璧な完成に近づきつつある。 僕とひかりの関係は、あのカフェでの僕の一方的な告白以来、僕の中で絶対的なものへと変わっている。
僕が母の『庇護』という孤独の原型をすべて告白した時、彼女は『デミアン』の一節で、僕のすべてを肯定してくれた。 (彼女は、僕のすべてを理解している。この世界で、僕の『魂の脆弱さ』を恐れず、受け止めてくれたのは彼女だけだ)
僕の恋心は、もはや信頼という名の、透明で美しいガラスの境界線の中で結晶化している。
このまま時間が止まってくれればいいと、祈るように息を潜める。
「……本校の伝統は、『文武両道』にあります!」
割れんばかりのマイクの反響音が、僕の鼓膜を容赦なく殴りつける。
文化祭直前の全校集会。
熱気と埃が充満する体育館の硬い床の上に座らされ、秋の大会に向かう運動部の壮行式に参加させられている。
僕がアトリエで必死に守ろうとしているあの透明なガラスは、こういう無防備で開かれた現実に引きずり出されると、ひどく脆い。
校長がステージの上で、力強くスピーチを続けている。
「勉学だけでなく、スポーツの世界でも、最高の『フォーム(形式)』を追求すること。それが、本校の誇りです!」
その『フォーム(形式)』という言葉に、強く心を揺さぶられる。
僕たちの『反乱』のテーマと同じ言葉。
スピーチが終わり、いよいよ各運動部の代表者が演台に上がってくる。
そして最後に、バスケットボール部のエース、木村大和が呼ばれる。
「ヤマトー!」 「頑張れよー!」
鼓膜を打つような歓声が体育館を揺らす。
ステージの中央に立った彼は、少し照れくさそうに笑う。
均整の取れた体躯。体育館の水銀灯を弾くような、明るい髪と肌。
誰からも好かれ、疑いようのない「完璧な正解(フォーム)」を持った男。
僕はその存在を、もちろん知っている。
僕を嫉妬の苦しみに引きずり込んだ名前、大和。
だが、実際にその存在をこれほど近くで認識するのは、これが初めてだ。
どんな人物なのか、調べる機会は作ればあったが、愛の試みによって、やっと抜け出した嫉妬の苦しみに引き戻されるのが怖くて、避けてきた。
いま、舞台に立つ彼は、目の当たりすると、わかっていたことだが、僕の『ガラスの部屋』から最も遠い場所にいる人間だと強く感じる。
僕は反射的に、隣の列に座るひかりの方へ視線を向ける。
ひかりは、一点の曇りもない完璧な笑顔を浮かべている。
その輝きは、体育館の暗い空気さえも一瞬で浄化してしまうほどの、圧倒的な美しさだ。
彼女は小さく、しかしはっきりと、大和の方へ手を振る。
大和はそのひかりの笑顔に一瞬目線を合わせ、そして力強く、拳を握り締める。
(ああ、そうだ。高槻ひかりは、彼のような光の中心にいる人間だ)
僕の心は、静かに軋む。
僕が彼女と共有している『共犯関係』は、アトリエの暗い隅っこで生まれた、他人には見えない秘密に過ぎない。
しかし、彼女が全校生徒の前で輝くこの光景こそが、本来の彼女が属する『世界』なのだ。
不意に、激しい焦燥感が僕を突き上げる。
このままの僕では、彼女の隣に立つ資格なんてない。
大和のように、眩しい光を真正面から受け止められる『ふさわしい形式』を僕も持たなければ、いつか彼女は僕の視界から消えてしまうのではないか。
そんな強迫観念が、心臓を冷たく締め付ける。
僕は無意識に、並んでいる僕と彼の姿を想像し、吐き気がする。
意識をそらしたくて、自分の手の平をじっと見た。
光を吸い込むような彼の肌と、地下室のネズミのような僕の指先。
その埋めようのない距離が、体育館の床を通じて僕を拒絶している。
誰もが認める『完璧な形式』を持つ大和。
対して僕は、孤独な図書館の住人。
最近『疾走と愛の試み』で、僕自身を『愛の試作品』にしようと早朝ランニングをしている程度の、貧弱で脆弱な魂の持ち主。 (僕と彼の間に、決定的な境界線が引かれている。まるで、僕を外の世界から隔てるガラスのように)
僕の胸に、制御不能な感情の混沌が渦巻く。
嫉妬、劣等感、そして彼女への強すぎる愛。
この感情の濁流は、僕の『ガラスの部屋』という秩序を、内側から破壊しようとする。
僕は必死で『愛の試み』を思い出す。 (違う。僕は彼女に僕の『脆弱さ』を告白した。彼女はそれを肯定してくれた……!)
その信頼の記憶を碇にして、僕は『ガラスの部屋』へと戻ることをかろうじて食い止める。
だが、心は深い暗闇に覆われている。
僕の愛はあまりに混沌としていて、脆い。 (この感情の曖昧さ、不安定さに、これ以上は耐えられない)
僕の母は、僕の混沌とした感性を『普通』という安全な形式に閉じ込めた。
そして僕もまた、今のこの混沌に耐えられない。 (この関係に、秩序を、確かな定義を与えなければ、僕の魂は崩壊する)
僕は心の中で決断する。
文化祭という『形式』の区切りが終わったら、僕は高槻ひかりに『告白』という最終的な関係性の形式を突きつけよう。
それが成就であれ、拒絶であれ、この不安定な『愛の試み』に名前を与え、ケリをつけなければ、僕の自我は『ガラスの混沌』の中で粉砕されてしまう。
隣の列で、登壇している運動部員たちへ向けられている彼女の完璧な笑顔を、僕はただじっと見つめている。
僕の一方的な信頼を裏打ちする絶対的な肯定に見える。
そして僕は、この愛の試みの結末を曖昧なまま放置しておくことは、もうできそうにない。
次話(37話 前夜祭と最後のサイン)へリンクする
<いよいよ、文化祭を翌日に控えた前日、蒼太とひかりはささやかなお祝いする、ひかりの蒼太の気持ちを聞く、その本意は…>

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