アトリエという閉ざされた世界で、ひかりとの特別な関係を絶対的なものと信じようとする蒼太。しかし文化祭直前の全校集会で、彼は誰からも愛される「完璧な形式」を持つ木村大和の圧倒的な眩しさを目の当たりにする。大和へ完璧な笑顔を向けるひかりの姿に、自らが「地下室のネズミ」であることを痛烈に自覚させられた蒼太は、激しい焦燥感と劣等感に突き動かされていく。内側から崩壊しようとする『ガラスの部屋』の秩序を守るため、彼は文化祭の終わりに「告白」という最終的な関係の形式を突きつけることを決断するのだった。
前夜祭と最後のサイン
僕たちのガラクタのアトリエは、静かな、しかし確かな熱気に満ちていた。
ひかりが組み上げた、古い窓枠の『ガラスの部屋』は、和紙を通して柔らかな西日を取り込んでいる。僕が魂を込めて描き上げた『獣道の森』の壁画は、チョークの青い鳥が今にも飛び立ちそうに見えた。 僕たちの頭の中にしかなかった、不格好で、しかし愛おしい星空が、今、確かにそこに存在していた。
最後の仕上げ。
僕たちは葛城先生から正式に借り受けたアンティークの書見台とガラスケースを、アトリエの中央に運び込んだ。
そして、このすべての物語の始まりとなった、あの一枚の貸出カード(レプリカ)と古びた『デミアン』を、そっとその中に収める。
僕たちの小さな反乱の心臓部が、静かに鼓動を始めた瞬間だった。
すべての準備が完了し、静まり返ったアトリエで、僕たちは完成した展示をただ黙って眺めていた。
それは完璧とは程遠い、手作りの空間だった。
だが、そこには僕とひかりが過ごした時間のすべてが息づいていた。
「……すごいね」
ひかりがふと、ガラスの壁にそっと手を触れた。
「なんだか、不思議。すごく静かで、落ち着く場所。ずっと、ここにいたくなっちゃいそう」
彼女はうっとりと、その閉ざされた空間を見つめていた。
その瞳は、僕たちが作った「部屋」ではなく、どこか、もっと遠くにある幻のような場所を見ている気がした。
「ダメだよ」
僕は即座に否定する。
脳裏には、昨日の体育館で見た、あの眩しすぎる大和の『形式』が焼き付いている。
あんな風に胸を張って光の中に立つためには、この脆い部屋は邪魔なだけだ。
「それは、僕の『抜け殻』だ。……高槻さん、僕はもう決めたんだ。僕が、このガラスを内側から叩き割って……『外の世界』へ出る。これはそのための儀式なんだ」
僕は、まっすぐに彼女を見る。
「この展示が終わったら、僕はもうガラスの住人じゃなくなる。……光の下にいられる自分になりたいんだ」
ひかりが、弾かれたように指先をガラスから離す。
「……割っちゃうの?」
彼女の声は、独り言のように低い。
「……せっかく、静かなのに?」
「え?」
「ううん! なんでもない!」
彼女はすぐに、いつもの明るい笑顔を顔に貼り付ける。
「……そっか。そうだよね! 外に出るための、展示だもんね!」
「私たち……仲間、だもんね」
彼女はそう言って、悪戯っぽく笑う。
(仲間……?)
その言葉が、なぜか小さな棘のように僕の胸にチクリと刺さる。
彼女の笑顔は眩しすぎて、その奥にあるはずの影を、僕は見ることができない。
その時だった。
アトリエの入り口に、一つの人影が立った。
柳先生だった。
彼は何も言わず、僕たちの創り上げた空間を、ゆっくりと見て回った。
ガラクタだったはずの窓枠。
黒いベニヤ板に描かれた森。
そして、中央のケースの内で静かに光を放つデミアン。
ひとしきり見終えると、先生は僕たちの前に戻ってきた。
「……なかなか、面白い『星空』じゃないか」
先生は、いつもの皮肉な笑みを浮かべていた。
「ガラクタの寄せ集めで、ここまでやるとはな。反乱軍も捨てたものじゃない」
その言葉の奥に確かな温かさを感じて、僕たちの胸は熱くなった。
先生は僕たち二人を交互に見つめ、言った。
「君たちのこの展示は、『魂』が剥き出しになりながら、それを『形式』に閉じ込めるという矛盾を、美しく表現している。……私に言えるのは、それだけだ」
そして、「明日は楽しみにしている」とだけ言い残し、静かに去っていった。
(あの人は、僕たちのすべてをどこまで見抜いている?)
僕は胸のざわめきを『謎』として押しやった。
ひかりは「褒められちゃったね!」と無邪気に喜んでいる。
そう、今は、考える時じゃない。
すべての片付けを終え、アトリエの電気を消す。
夕闇に包まれた僕たちの小さな宇宙は、窓から差し込む月明かりを浴びて、静かに輝いていた。
「ねえ、神木君」
ひかりが言った。
「ちょっとだけ、お祝いしない? 反乱軍の前夜祭!」
僕たちは購買の自動販売機で缶のジュースを買った。
そして誰もいない夜の校庭のベンチに、並んで腰掛ける。
カシュ、という軽い音を立てて、プルタブを開ける。
「じゃあ……」
ひかりが僕の缶に自分の缶をこつん、と当てた。
「私たちの星空に、乾杯」
「……乾杯」
僕も小さな声でそう返した。
強い炭酸が、喉を通り過ぎていく。
その時、ひかりが缶ジュースを持った手の力をわずかに抜いた。
彼女の缶は、僕の缶からゆっくりと離れていき、不安定に傾いた。
そのわずかな距離に僕はなぜだか不安になった。
僕たちがこの暗闇で創った『星空』の、その脆さのように感じたのか。
「……ねえ、神木君」
ひかりが夜空を見上げながら言った。
その声はいつもよりも一オクターブ低く、そして微かに震えていた。
「さっきアトリエで言ってたこと。……本気なんだよね?」
「え?」
「展示が終わったら、神木君はもうガラスの住人じゃなくなる。……外の世界の住人に、なるんだよね?」
彼女はそう確認すると、缶を強く握り締めた。
そして、ゆっくりと僕の方に顔を向けた。
その笑顔は、夜の校庭の暗闇の中でさえ、どこか泣き出しそうに僕には見えた。
「だから、もう……戻れる場所なんて、必要なくなるの?」
ひかりの、その言葉。
僕は、彼女が僕の『自立』を最終確認してくれているのだと確信した。
過去の自分との決別。
それを彼女は祝福してくれているのだと。
「ああ、必要ないよ」
僕は間髪入れずに、そう断言する。
過去の孤独を克服したと証明することこそが、彼女への誠実だと確信している。
「僕には、もうあの暗い部屋は必要ない。だって、外には『太陽』がいるから」
僕は彼女の瞳を覗き込む。
「高槻さんという、みんなを照らす『太陽』がいる場所に、僕は行くんだ。君が照らしてくれるなら、僕はもう、あの狭い部屋に戻る必要なんてどこにもない」
ひかりの顔から、微かにひび割れていた笑顔の破片が、すべて消え去る。
彼女は一瞬、天を仰ぐ。 呼吸をするための酸素が、突然世界から奪われたかのような顔だ。
(なぜ……?) 僕は、戸惑う。肯定したはずだ。
彼女を、僕にとっての絶対的な光だと肯定したのだ。
そうか、そういうことか。
きっと彼女は、僕がこの暗い部屋から本当に抜け出せるのか、一人で外の世界へ出て行けるのかと、僕を心配して…、そう、心配してくれているんだ。
「……そっか。そうだよね。太陽、だもんね……」
その声は乾いた風のように、虚しく響く。
彼女はしばらくの間、夜空の一点を見つめている。
何かを必死に飲み込もうとしている横顔。
やがて彼女は深く吸い込むと、ゆっくりと僕の方を向く。
その顔には、もう戸惑いも弱さもない。
そこにいるのは、いつもの、完璧に眩しい笑顔の彼女だ。
(ああ、やっぱりそうだ。僕の決意が、彼女の不安を打ち消して、また笑顔を取り戻させたんだ)
「……わかった。それなら、私たちがやることは一つだね」
彼女の声には、もう震えはなかった。
「この展示を、絶対に成功させる…神木君がガラスの外に行けるように、私、最後までやり遂げるよ」
「……うん」
僕は頷いた。
目の前で、何か大切なものが閉ざされたような気がした。
でも、その強い眼差しに、僕は応えるしかなかった。
僕は、心の中で自分自身に誓い、そして彼女への『手形』を発行するように、言葉を飲み込んだ。
(見ていて、高槻さん。僕は、君にふさわしい人間になるから。大和のような、正解の『形式』を持った強い男になるから)
それが僕にとっての誠実であり、彼女に対する愛の試みだから。
文化祭が終わったら、すぐに告白する。
もう、この焦燥感に振り回されるのは嫌だ。
見上げると、空には一番星が瞬いていた。
僕たちの小さな、しかし完璧な前夜祭は、静かに幕を閉じようとしていた。
僕は明日、すべてを『形式』に収束させる決意だけを胸に抱いている。
展示という、僕たちの魂を形にした「聖域」を完成させれば、きっとその先にある光の世界へ、僕は迷わずに踏み出せる。
……けれど、胸の奥で微かに波立つ、この冷たいざわめきは何だろう。
強い眼差しを向けてくるひかりの、その「完璧な笑顔」の輪郭が、夜の闇に溶けて、どこか遠いものに見える。
僕たちが創り上げたこの『形式』が、明日の朝、どんな色で僕たちを照らしてくれるのだろうか。
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<いよいよ迎えた文化祭、蒼太とひかりの『たった一人のための物語展』は大盛況となるが…ふたりの星空が消える>

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