飾る場所のない花束
蒼太は「愛の試み」を胸に、自分を鍛え直し、ひかりへの歩み寄りを始める。彼女の誕生日が文化祭直後だと知り、かつて彼女が求めた『はてしない物語』の単行本を衝動的に購入。アトリエでの転倒を機にわだかまりが解けた二人は、再び「共犯者」として笑い合う。深い絆を取り戻した蒼太は、ひかりを感じながら、停滞していた物語の執筆を再会し、合理主義に走ったアルドが葬った「かつての自分」を看取る物語を、再び紡ぎ始めたのだが…
翌日、アトリエでひかりに書き上げたばかりのプリントを渡すと、彼女はその場で夢中になって読み始めた。
ひかりは、一字一字を慈しむように目で追っていた。
その真剣な横顔を見ているだけで、自分の言葉が彼女の心に染み込んでいく確かな手応えがして、僕の胸の奥は熱くなる。
窓から差し込む午後の西日が、ひかりの横顔を白く飛ばしていた。
あまりに眩しすぎて、彼女が今、どんな目で僕の言葉を追っているのか、その表情までは読み取れない。
だが、僕の目にはその逆光さえも、僕たちの物語を祝福する後光のように見えていた。
「……ねえ、神木君。ここ、すごくかっこいいね」
ひかりが指差したのは、リクがダルボの問いに対し、決然と目的を告げるシーンだった。
「リク君が迷わずに『市長を、あの夜の止まったままの時間から、連れ戻したいんです』って言い切るところ。読んでて、なんだか私も勇気をもらえる気がする。リク君が、ただチェロを直すんじゃなくて、誰かの人生を救いに行くんだっていう強い気持ちが伝わってくるみたい」
その言葉を聞いて、僕の胸は誇らしさで満たされた。
僕の込めた熱量が、彼女の心にまっすぐ届いて、彼女を勇気づけている。
これこそが、僕たちが求めていた「共鳴」そのものだ。
「でもね」
ひかりは少しだけ首を傾げ、ページをめくる手を止めた。
彼女の指先が、原稿の端を何度もなぞる。
まるで、そこに書かれた僕の言葉の一つひとつを、こぼさないように指先で掬い上げようとしているみたいだ。
あるいは、あまりの熱量に気圧されて、次のページをめくるのを躊躇っているのだろうか。
「このダルボさんっていう人……。なんだか、リク君に優しすぎないかな?」
「え、そう? 最初はすごく怖かったろ。酒瓶を持って睨んできて、てっきり怒鳴られるかと思ったのに?」
「うん、そうなんだけど。……なんて言えばいいのかな。ダルボさんが市長さんの親友だったり、あんなに都合よくチェロを直してくれたり……。なんだか、リク君が『正解』に辿り着くのを、一番いい場所でずっと待っていてくれたみたい。リク君を導くために、一生懸命役割を演じてくれてる気がしちゃって」
ひかりは、何かを言い淀むように僕を見た。
その瞳は少しだけ戸惑っているように見えたけれど、それはきっと、僕の書いた物語の展開が、彼女の想像を上回る劇的なものだったからに違いない。
「リク君に見えている『光の道筋』は、すごく綺麗。でも、その光が強すぎて、周りにいる人たちの姿を……全部光で消しちゃってるような気がするの」
ひかりは原稿を机に置き、窓際に置かれた、手入れの行き届いていない小さな観葉植物の葉をそっと触れた。
「……私さ、前に誕生日に花束をもらったことがあるんだけど。すごく綺麗で、最初は嬉しかったんだ。でも、そのうちなんだか、見るのが辛くなっちゃって」
彼女は自嘲気味に、少しだけ肩をすくめた。
「花って、完璧にきれいじゃない? 否定できないくらい『正しい』、でも、部屋が散らかってたり、水を取り替えるのを忘れたりする自分を見ていると……そのきれいさが、なんだか自分を責めてるみたいに思えてきちゃって。花にふさわしい自分でいなきゃいけないのが、その時の私には、ちょっと重たかったんだと思う」
彼女は僕を見ずに、少しだけ寂しそうに笑った。
「市長のアルドも、そうだったのかな。明日を生きるのに必死な時に、音楽なんていう『正しい美しさ』を突きつけられたら……それは救いじゃなくて、ただの重荷になっちゃうのかも。……なんてね。私に、その花を飾る余裕が、まだ足りないだけかもしれないんだけど」
その言葉を聞いた瞬間、僕の視界がぱっと開けた。
なるほど、そういうことか。
アルドがなぜ音楽をあんなに激しく拒絶したのか、その「動機」が今のひかりの言葉で完璧に補完された。
彼女は、僕が書いた物語を自分事として、これほどまでに深く読み解いてくれている。
僕たちの孤独な作業が、こうして一つの「正解」へと結実していく。
その手応えに、僕はたまらなく興奮した。
僕は忘れないうちに、原稿の余白にペンを走らせた。
「……そっか。今の話、すごくいいよ。アルドの葛藤が、もっと生々しくなる。高槻さん、さすがだね」
僕は顔を上げ、確信に満ちた声で彼女に問いかけた。
「もっと泥臭くしたほうがいいかな? アルドの生活感とか、彼が美しさを『呪い』だと感じるようになった理由とかをもっと描き込めば、物語の説得力がさらに上がるよね」
僕が問いかけると、ひかりは一瞬だけ、弾かれたように僕を見た。
「……あ、そっか。ごめん、変なこと言って。そうだよね、設定を直せばいいんだよね」
ひかりはふっと視線を逸らし、小さく笑った。
その微笑みは、僕の言葉に対する納得というより、何かを諦めて飲み込んだようにも見えたが、今の僕には関係なかった。
僕が彼女のぼんやりとした不安を即座に「アルドの設定」という具体的な解決策に落とし込んだことに、彼女はただ圧倒されているのだろう。
「共鳴」は、今、間違いなく最高潮に達している。
ひかりが感じていた正体のない「重荷」を、僕のロジックが綺麗に解きほぐしてあげたのだ。
ひかりは、それから静かに首を振った。
「うーん、どうだろう。でも、リク君は『正しい』もんね。正しいから、迷いがないんだよね。……そっか、そうだよね。正しいことは、いつだって強いもんね」
ひかりは自分に言い聞かせるように呟くと、アトリエの隅に置かれた「ガラクタ」に一瞬だけ目をやった。
それから、いつもの元気な表情を作ってペンキの準備を始めた。
彼女が僕を「正しい」と認めてくれた。
その一言だけで、僕の足取りは軽くなる――はずだった。
だが、作業に戻った彼女の、少しだけ丸まった背中を見ていると、僕の胸の中に正体のわからない「泥」のようなものが沈殿していくのを感じた。
ひかりの言った「花束のハードル」
それは、僕が彼女に手渡したこの物語のことだったのだろうか。
僕は、自分の「照れ」や「自意識」を晒すのを恐れて、誰も否定できない『正しさ』という名の綺麗な包装紙で、自分の言葉を包みすぎてはいなかったか。
「形式」という鎧を着込んで、彼女に、拒絶する隙さえ与えない「完璧な贈り物」を押し付けてしまったのではないか。
――いや、考えすぎだ。
僕は慌てて、その思考に蓋をした。
そんなはずはない。
僕たちの共鳴は本物だったはずだ。
今更、自分の弱さをさらけ出して、この美しい流れを止めるわけにはいかない。
「……神木君? どうしたの、チョーク持ったまま」
ひかりが不思議そうに振り返る。僕は慌てて首を振った。
「いや、なんでもない。……もっと、いいものにするから」
僕はまた、自分を安心させるための言葉を選んでしまう。
僕はチョークを握り直した。
指先に力を込めると、カチリと乾いた音がしてチョークの端が砕け、白い粉が床に散った。
砕けた破片は、まるで飾り損ねて地面に落ちた、小さな花弁のようだった。
僕の頭の中には、完璧な光の道筋がもう完成している。
ひかりが感じた違和感という名の「ノイズ」も、僕自身のこの臆病な「震え」も、すべて圧倒的な「光」で塗りつぶしてしまえばいい。
……そうすれば、彼女を本当の光の場所へ連れていってあげられるはずなんだ。
文化祭まで、このまま走り切ろう。
そうすれば、僕たちの孤独な戦いは終わりを告げるだろう。
僕とひかり、二人の「共犯者」の夜明けは近いはずだ。
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<ふたりがいるカフェに偶然、柳先生が現れる、蒼太は現実と向き合っていこうとするが…>

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